『求道者伝道テキスト』各課の解説 「求道者伝道テキスト」の各課の解説を始めれば、限度がありません。それは聖書のことやキリスト教のことをすべて語るに等しくなります。したがって、ここでは信仰生活の長い信徒や伝道者を対象にテキストに沿った要点のみを簡潔に記します。
『キリストの教え』(信仰を求める人のための聖書入門)、春秋社、2007年、1800円、
(03-3255-9611
http://www.shunjusha.co.jp/ ISBN978-4-393-22205-8) は、「求道者伝道テキスト」に沿って書かれている本ですから、参考になると思います。
また、このホーム・ページの最後に「求道者伝道テキスト」を作る苦労話や日本の教会の伝道に関しての鈴木崇巨(たかひろ)の理解についての文章を載せてあります。お時間のある時に後半の「伝道雑感」に立ち寄ってください。
「求道者伝道テキスト」の第1課から第10課までは、日本人が聖書を学ぶための予備編です。求道者が聖書を学び始めるときに予備知識として知っておくべきことが取り上げられています。第11課以降は聖書の教えに基づいた信仰の説明です。では、第1課から順に要点だけを記します。
第1課 「聖書の神の名前」 名前は他と区別するために必要です。「主」と翻訳されている日本語は、聖書の神の名前です。ヘブライ語の「ヤーウェ」です。その神が、目を閉じた時に、目の前に現れてくるようにイメージします。その神に話しかけるのがキリスト教の祈りです。このことさえ分かれば、本日から祈ってはいけない理由があるでしょうか。日本人は初めて行った神社でも平気で祈ります。同じような気持で「主」に祈ることにクリスチャンとして抵抗を感じますが、なにしろ初めて学ぶ求道者ですから、最初から「今後は、『主』が斜め前上方にいてくださると思って、その名を呼んで祈ってください」と教え、それを実践していただくように導きます。まだ祈りたくないと言う人には、もちろん強要しません。鈴木の経験では拒否する人は一人もいませんでした。拒否されなかった理由は、面談(授業)の終わりに、ごく自然に「では、お祈りして終わりますから、目を閉じてください」と言って、鈴木が静かに祈り始めてしまうからかもしれません。
第2課 「イエス・キリスト」 日本人が一番疑問に思い、分かったようで分からないことが「神」と「キリスト」の関係です。餅をたとえに説明します。あるいは「パン生地」をたとえに説明してください。三位一体という言葉は使いません。これは難し過ぎる言葉です。父なる神とイエス・キリストの関係はけっして難しいことではありません。やさしく説明して、求道者に納得していただきます。
第3課 聖霊 人間は体と心と霊によって出来ています。人間には「霊」があることを求道者に教えます。一方的に押し付けるように教えることを意味しているわけではありませんが、こればかりは説明して説明できることではありませんので、「第16課で詳しく勉強しますが、人間には霊というものがあります。その人間の霊で神の霊を受けることが出来ます」と教え、目の前に現れて来る聖書の神「主」より放射されている聖霊を受けることを教えます。
また、ほとんどすべての日本人求道者は、キリスト教信仰を持つと日本の社会の中で生活することが難しくなることを知っていますから、そのやり過ごし方を、この求道者伝道の初期に取り上げて納得していただきます。求道者に納得していただくことが大切です。要点は「通過儀礼」には出席すること、しかし、偶像を拝まないことです。
第4課 祈りの世界へようこそ 求道者は教会に長く通っているうちに自然にキリスト教の祈り方を覚えてくださるという勝手な思い込みは捨てましょう。日本人求道者には、理論的にはっきりと祈り方を教えましょう。日本人は教えられたことに忠実ですから、祈り方を教えることは非常に大切です。鍵になる言葉は「祈りの世界をイメージする」ということです。「目の前に、父なる神がいてくださり、その右にキリストがいてくださると思ってください。右とは『代理』を意味します。ですから、父なる神があぐらをかいておられるならそこにイエス・キリストが座っているようにイメージしてくださってもいいです。その父なる神とイエス・キリストから聖霊が出ているとイメージしてください。これがキリスト教の祈りの世界です」と説明します。このような「祈りの世界」を持って神の前に出れば、人は皆驚きます。なぜならば、その神は「天地の創造者で、性質は愛と謙遜、姿は栄光、威光、権威に満ち・・・」などを持った全能者だからです。それらは今後学ぶことですが、ともかく、全能の、天地の創造者であられる神の前に出ていることをイメージすれば、人は皆「ハレルヤ」と叫ばざるを得ません。このすばらしい祈りの世界を、わずか4週間で体験できるのは、なんという恵みでしょうか。この確信を伝道者が持たなくて伝道できるでしょうか。世界一すばらしい宗教である「福音」を、いわばセールスしているのですから、勇気を持って、神さまに押されて、伝道しましょう。
第5課 旧約聖書の大切な部分 旧約聖書の基盤は「律法」です。律法のすばらしさを伝道者自身が信じていなくて、どうして求道者に旧約聖書を教えることが出来るでしょうか。「律法」は今も万国の法律の元になっており、人類の生活の規範になっています。神が世界を創造されたから今求道者も存在します。それも「律法」の教えです。律法に関することは「求道者伝道テキスト」の中で、説明はできても納得してもらうことが一番難しい点です。(この点についてさらに深く理解したい指導者はユダヤ教を少し学ぶことが良いかもしれません)
第6課 新約聖書の大切な部分 「福音書」を抜きにして、新約聖書もキリスト教もあり得ませんし、新約聖書の中の手紙類も黙示録も生まれてこなかったことでしょう。そういう意味で福音書は新約聖書の基盤です。それは旧約聖書における「律法」と同じように大切なものです。
「当時のユダヤ人社会の背景」は難しく思われる教師がおられるかもしれませんが、それほど難しいことを要求していません。常日頃の礼拝説教で牧師が説明していることです。
第7課 新約聖書の中の使徒書 新約聖書の福音書以外を使徒書というくくりの中に入れて説明します。これで求道者は新約聖書の全体を俯瞰的に理解できます。求道者が自分一人でも新約聖書を読めそうだと思ってくださればうれしいことです。使徒書を理解するためには「当時のローマ帝国の社会背景」を知る必要があります。これも常日頃、礼拝説教で説明されている程度の内容です。参考書もいくつか出ていますから、必要に応じて学ぶとよいかもしれません。しかし、あまりに難しい内容にまで立ち入ると求道者に理解されなくなります。
第8課 悔い改めて謙遜になりなさい キリスト教信仰の非常に良い点は、倫理的に、道徳的に、また人格的に高い理想を追い求めている点ではないでしょうか。特に、「愛」の教えは聖書の一番すばらしい教えではないでしょうか。しかし、それは求道者にとってはまだ難しい教えだと思います。それに比べ、謙遜の教えはイエスのへりくだりを説明すれば分かりますから、求道者には分かり易いと思います。愛については第15課と第24課で学びます。
第9課 血の教え なぜキリストが私たちの犠牲になって死んでくださると、私たちの罪があがなわれるのでしょうか。このことを論理的に教えないことは、求道者伝道において決定的な欠損になります。求道者がこれを理解できれば、本当に偉大な一歩を前進させます。信仰は聖霊の導きによることは言うまでもないことですが、それを理論的に支えることは非常に重要だと思います。知識と信仰は別ものですが、信仰は正しい知識に支えられる必要があると思います。「血」が世界で最も高価なものであるというのは、聖書が断定する偉大な知識です。しかし、世の中にはお金が最高に価値あるものと思っている人もいますから、まず十分に説明して求道者に納得していただきましょう。
今のような高い教育が無かった旧約聖書の時代に、罪の贖いを動物の「血」によって行っていた旧約聖書のやり方を、指導者(教師の側)が唯一の方法であると確信することなしに、キリスト教伝道を行う資格はないとすら思います。これは厳し過ぎる言葉でしょうか。律法は血の上に成り立っています。十字架の福音も血の上に成り立っています。血を隠したり不浄なものとしてきた日本人求道者に真剣に教育しましょう。
第10課 イエスの御名 もし求道者がイエスの御名によって祈れば、御父とイエス・キリストは喜んで祈りを聞いてくださると信じることができれば、その求道者の信仰は正しく清い信仰であると思います。クリスチャンはイエスの御名によって祈る特権を与えられていることを十分に信じていなければならないと思います。熱心そうな声を出したり、長時間祈ったりすることが求められていることではなく、イエスを神の御子と信じてその御名を用いて祈れば必ず聞かれるという純粋な信仰こそが祈りの基礎であることを教えましょう。
さて、以上のように第1課から第10課までは、聖書を理解するための予備知識でした。どうか以上のことを日本人求道者には「難しいこと」と思わせないでください。これらのことはやさしい基本的なことですから、言葉を尽くして説明しましょう。日本人の中にはキリスト教を難しい宗教と思い込んでいる人がいます。他方、人は皆救いを熱心に求めています。人の救いにかかわる大切なことですから、熱い思いを持って求道者に語りかけるようにいたしましょう。私たちの知識の多さではなく、福音を語る熱意が求められていることです。
第11課 幸せな生活のための律法 律法は(1)生活に関する教えと(2)礼拝・儀式に関する教えに大別されます。613の律法はすべて神から来たすばらしい教えです。そのことを指導者(教師)の側が信じていないならば、求道者は律法学者のように律法を受け取ってしまうかもしれません。すなわち、堅苦しい道徳的な教えと受け取ってしまうかもしれません。私たちの人生と生活を幸せなものとしてくれる「柔和な神」からくる教えが律法です。この第11課では(1)の生活に関する教えを扱います。テキストに書いてない教えで、教師が良いと思う聖句があれば、それらも使ってください。(2)の礼拝・儀式に関する律法は第18課で学びます。
第12課 キリストの奇跡 すでに第6課で学んだように、福音書はキリストの(1)奇跡、(2)説教、(3)十字架と復活がおもに書かれています。そのように大きく福音書をとらえて、そのうちの「奇跡」について学びます。聖書に書いてあることはそのままであると筆者は信じています。そのことを押し付けるのではなく、教師がそのように理解していることを知らせるだけで、求道者にとっては意味のあることだと思います。イエスはまったき神の子であられたので不思議なことを行うことが出来ました。
第13課 イエスのやさしいたとえ話 難しいたとえ話を加えても、四つの福音書にかかれているたとえ話は合計して約50個にすぎません。数を言うことによって、イエスの話が無限で、難しいものであるという思い込みから解放されます。求道者は意外に神からの教えの数が少ないことに気づいてくれます。そうすれば、もっと多くの教えを欲しいと思い、「そうだ、旧約聖書の『律法』も直接神から来たもう一つの教えである」ということに気づいてくれると思います。神から人類に教えられていることは、律法も福音書もやさしく単純な教えであることを求道者が気づいてくださるとよいと思います。
この課は前半の「聖書の豆知識」のような内容に、あまり時間を取られないように注意するとよいと思います。すなわち、この課の後半のたとえ話により多くの時間をかけた方が良いと思います。
第14課 イエスの弟子たち 求道者にとって聖書に出てくるカタカナの名前は、なじみがなく難しく感じられます。この課ではペテロ(ペトロ)の名前だけでも知っていただければよしとします。
第15課 神を愛せよ、人を愛せよ 神が世界を創造されたから、私たち人間が存在します。ですから、聖書は常に神第一主義です。神を愛する人は、人を愛する人へと生まれ変わります。
第16課 人間を構成しているもの 創世記第2章7節で「神が人の鼻に命の息を吹き込まれた」と書いてあります。ここには霊を吹き込まれたとは書いてありません。「息」を吹き込まれたと書いてあります。「息」と「霊」は別の言葉です。しかし、この「息」という言葉は「霊」を意味しています。人間は「霊」を吹き込まれたので生きる者となりました。したがって、「霊」を取り上げられたら臨終を迎えます。(取り上げられた霊は神の国に行き、新しい体を神の国で与えられ永遠に生きます)
霊という言葉は旧約聖書では「ルアッハ」、新約聖書では「プニューマ」だけです。他方、人間の心を表現する言葉はいろいろあります。いろいろある理由はそれだけ人間の心は多様で、それを表す言葉も多様になるからです。心、魂、気持、精神、知識、知恵、理性などの言葉です。これらの言葉と聖書の「霊」とは異なります。霊は霊であって、それに代わる言葉はありません。求道者に「あなたの中には霊があることを信じてください」とはっきり教えましょう。
特に、日本では魂という言葉と霊という言葉が同じような意味で用いられ、霊魂などという言葉がありますので、求道者に魂はいわゆる心の一種にすぎないことを教え、霊を独立した別ものであることを徹底しましょう。人間は自分の霊で聖霊を本当に受けることが出来ます。(そこから聖霊の賜物や聖霊の実が出てきます)
「神はわたしたちに、ご自分の霊を分け与えてくださいました」(Ⅰヨハネ4:13、共同訳)。私たち人間の霊は神の霊から出ています。したがって、私たちの霊は神の霊すなわち聖霊を受けることができます。私たちの血は全身を行き巡っていますから、全身が生きています。生きているということは全身に霊が働いています。したがって、聖霊を受けることができるのは、私たちの体のどこからでも受けることが出来ます。何を言いたいかといいますと、聖霊は私たちの鼻とか爪とか髪の毛の穴から入って来るなどと限定してはいけないと言うことです。いわば全身のどこからでも聖霊は自由に私たちの中に入ることが出来ます。
祈るとき目を閉じて、目の前に神(父とキリスト)を思い、自分の霊の中に聖霊を受け入れるイメージをしっかり持つと、その求道者は霊的な祈りのできる信者へと成長します。これはとても大切な点です。あなたが実践しておられる祈りが、そのまま求道者に真似されますから、あなた自身の祈り方が求道者伝道では非常に重要です。どうか確信をもって言葉を尽くして説明するようにしましょう。
第17課 固定観念を捨てましょう この課は、クリスチャンの人格的な成長の秘訣を取り扱います。聖書を学び聖霊を受け続けることによってクリスチャンは成長します。学校教育や社会勉強や人生訓練を否定するものではありませんが、聖書と聖霊による教育に優るものはありません。生涯にわたり礼拝に出席し、日々聖書を読み、祈る人になるように求道者を励まします。そうすることによって、求道者は自分の内にある固定観念を照らし出され、それらから解放されます。聖書をたくさん学ぶことは、私たちを悪魔の力から解放し、人生を幸せなものにしてくれます。
第18課 儀式的な律法 「モーセ五書」の中には幕屋のことがたくさん書かれています。幕屋はイエス・キリストを暗示しています。犠牲の動物の「血」は、イエス・キリストの十字架上で流される「血」を指し示しています。ささげられた動物は、やがて地上に誕生してこられるイエス・キリストを指し示しています。聖書は人間の罪をどのようにあがなうかということが書いてある書であると言うことが出来ます。「血」は命であって、宇宙でもっとも高価なものですから、あがないのために用いられます。この課はとても難しいことを扱っているように見えますけれど、実は非常に単純な教えです。難しく考えないで、「やさしい内容です」と言って要点だけを話しましょう。私たち人間は聖書のすべてを理解できませんから、細かな点については分からない部分がたくさんあります。分からないことは分からないと言う勇気を持ちましょう。
第19課 キリストの十字架と復活 イエス・キリストの十字架と復活の出来事は聖書に書かれている通りです。それは事実でした。
イエス・キリストの十字架と復活は切り離せるものではなく、ワンセットです。
イエス・キリストの十字架と復活の意味は、新約聖書の中に五つ出てきます。その中でも十字架による贖罪と復活による永遠の生命の証明の二つは特に大切です。しかし、他の三つもきちっと教えましょう。
第20課 使徒パウロ 新約聖書に登場してくる人物で、求道者が覚えるべき名はペトロ(ペテロ)とパウロです。すでにペトロ(ペテロ)は学びましたから、ここではパウロについて学びます。ヨハネやヤコブやアンデレなどは、このテキストでは学びません。
第21課 旧約聖書の歴史 旧約聖書に出て来る歴史は、求道者に教える場合は、大きくとらえて教えることが重要です。けっして細かいことを説明しないことです。もちろん質問されたら答えなければなりませんが。
要点は、アダムの罪がついに国家滅亡に至らしめたと言うことです。
人物名で言えば、アダム、アブラハム、モーセ、ダビデの四人を教えます。
神はアダムの罪を遺伝された人類(代表イスラエル人)を哀れに思い「律法」を与えてくださいましたが、人類(代表イスラエル人)は神に立ち帰ることが出来ませんでした。神はなおも人類を憐れみイエス・キリストを十字架におかけくださいました。このような旧約聖書から新約聖書への連結は、かならず教えなければなりません。
(本書ではユダ王国の滅亡年を紀元前587年説にしています)
第22課 聖書の中間時代 この課はけっして細かいことを教えようとしているのではありません。ここは世界史の問題であり、その分野の専門家でなければ説明できないことだと思います。
律法学者、パリサイ人、祭司、サドカイ派、離散していたユダヤ人などは、それらを個別に説明するより、聖書の中間時代を知ることによってまとめて理解する方がはるかに得策です。この分野について学んだことのない教師(指導者)は、大雑把な要点だけでも自習してくださるとよいと思います。けっして専門家ほどの知識を要求しているのではありません。ただ、この課をぬきにして新約聖書のさらなる学びはできないと思います。
第23課 イエスの難しいたとえ話 正直に言って「難しいたとえ話」というこの課の表題が、ふさわしい題なのかどうか、筆者自身は疑問に思っています。しかし、神がどのような御方であられるかを、私たちがあれこれ考えること自体は何と言う恵まれたことでしょうか。もしイエスの語られたたとえ話を、わたしたちがあれこれ考えるならば、そのことを神は喜んでくださるに違いないと思います。ちょっと想像してみてください、地上で多くの人々がイエスの残していかれたたとえ話を考えている様子を。きっとイエスは「たとえ話を残してきてよかった」と思っておられるのではないでしょうか。それだけ人々が神と神の国について考えているのですから。それは素晴らしいことだと思います。
第24課 聖霊の実 「聖霊の実」について理解するためには、その前に
第3課 聖霊が主から私たちに注がれているという聖書の教え
第9課 私たちはキリストの「血」によって清められているため、聖霊を受けるこ
とが出来る身になっていること
第10課 「イエスの御名」によって祈れば聞かれるという強い信仰
第16課 人間は「霊・心・体」によってなり、私たち人間の霊に神の聖霊が直接注
がれていること、などの理解が必要です。
このような今までの学びの上で、求道者は真剣に「聖霊の実」を求め始めます。すべての求道者が自分の心の貧しさや欠点を嘆いているはずですから、神から与えられるすばらしい聖霊の実を求め始めます。この課を学ぶことによって、求道者は体験的に信仰の世界に入り、階段を一つ上に登ることが出来ます。もし教師自身が信仰を持ってから何か変えられたこと、すなわち聖霊の実を与えられている経験をしているなら、そのような証を求道者に話すとよいと思います。
第25課 聖霊の賜物 聖書によれば、クリスチャンは聖霊の賜物を与えられます。ですから、教師は求道者にそのことを正しく教えなければなりません。
聖霊の賜物の理解は教会を分裂の危機に追いやり、クリスチャンを引き裂く結果にもなりました。これはキリスト教会の歴史の悲しい事実です。それはアダムの罪が現代の私たちの中にも厳然として存在していることを教えています。どうか聖霊の賜物に関する聖書の教えが自己主張や自己保身や傲慢の元にならないようにお願いします。
「賜物」とは神からの一方的な恵みであるということです。ある人には与えられ、ある人には与えられないこともあると言うことです。そのことを理解したうえで、すべての信者が熱心に求め続けるべきです。
他の人に与えられている賜物を嫉んだり、自分に与えられている賜物を誇ったりすることは愚かなことです。聖霊の実は、聖霊の賜物に優るものです(Ⅰコリント13:1-2)。求道者が洗礼を受け、聖霊の賜物を与えられたら、それは導いた教師の喜びです。そのような気持を持って、この課を教えましょう。
現代の日本の教会において、もっとも残念なことは、「聖霊の実」や「聖霊の賜物」を求めないどころか避けている教会があることです。その原因は教師や信徒の「保身」だと思います。なんという悲しいことでしょうか。冷静な気持で、確信を持って、求道者伝道をつづけましょう。
第26課 旧約聖書の文学 古代の一つの民族が、天地を創造された神から直接「いかに生きるべきかの教え」(律法)を与えられ、その教えによって訓練された青少年が、やがて成長して信仰的な知恵の言葉を語り、中には天来の声を聞き、幻や特徴ある夢を見ることは大いにありうることです。旧約聖書の文学や預言は、そのような熱心な唯一神への信仰から生まれてきました。この大前提の上に立って、求道者が旧約聖書の文学を好きな人になってくださるように導きましょう。
第27課 旧約聖書の預言 現代は非常に非宗教的な社会だと思います。多くの青少年が神や宗教について無関心です。しかし、旧約聖書のイスラエルでは、幼少のことから律法によって教育と訓練を受けてきた信仰篤い人々もいました。それらの人々の中から、神に選ばれた特別な人々が現れてきました。ある青年は頭脳が明晰で、ある青年は感性が豊かでした。そのような人々の中で、神からの声を聞き、夢や幻を見る人々がいました。彼らは自分に迫って来る神の力により、もはや黙っていることが出来ませんでした。彼らは預言をし始めました。旧約聖書の預言の背景には「律法」による教育があったことを見逃してはならないと思います。預言を遠い過去のことではなく現代でも起こりうることであることを教えましょう。
第28課 キリストの再臨 天地の始まりがあれば、また終りもあるはずです。旧約聖書は終末を前提としています。イエス・キリストは終末とご自分の再臨を確かに約束しておられます。使徒書にも終末と再臨を当然のこととして期待しています。聖書にしるされている通りにキリストの再臨を教えましょう。
第29課 教会と礼拝 イエスが12使徒を制定した背景には、将来現われて来る教会(エクレシア)を想定していたことはまぎれもない事実です。新約聖書の学者によれば、このような将来の教会の出現を想定している聖句は、新約聖書の中に少なく見積もっても80を下らないと言われます。教会は神が制定されたものであることを教えます。そして、主の復活を記念してクリスチャンは土曜日から日曜日に礼拝日を変え続けてきました。礼拝は神がお命じになったことです。したがってクリスチャンは礼拝を厳守します。
礼拝論の詳しいことについては、このテキストではふれません。各教会で行われている礼拝を尊重しましょう。
第30課 私はこれでも信仰をもっているのでしょうか 信仰は目に見えないことですから、異言を語ったり夢や幻を見ない限り、絶対的に自分の信仰を確かめることはできません。しかし、30回も共に聖書を学んで来れば、教師は求道者の中に信仰の火種のある事を確かに感じます。ですから、求道者が「神様、私はまだよくわかりません」と言うのではなく「私はよくわからないところがありますが、私はこれからあなたを信じます」と言うように励まします。
伝道者の使命はマタイ28:19にあるように「洗礼を授ける」ことですから、求道者に洗礼を勧めなければなりません。
筆者はこのテキストを用いながら120名以上の求道者に伝道して洗礼を授けました。ほとんどの求道者は、私が勧める前に本人から受洗を申し出てくれました。もちろん、受洗に至らなかった求道者もいました。すべては主のお計らいのことです。洗礼を強引に進めることはできませんが、励まし勧めることはしなければならないと思います。
筆者は洗礼を申し出た求道者に、洗礼前の準備や信徒になるにあたっての心構えなどを行ってきましたが、ここでは省略します。それらはどこの教会でも行われているような内容でした。 (終わり)