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伝道雑感

伝道雑感

(1)以下の文章はキリスト教の月刊誌『舟の右側』2014年8,9,10月号に連載された
「聖書の学びと伝道」という題の文章の要約です。(筆者・鈴木崇巨(たかひろ)  日本基督教団牧師、
個人伝道研究会「地の果てまで」主宰)

伝道に行き詰まって

 私は日本基督教団の牧師です。私は東京オリンピックを、東京神学大学の神学生寮のテレビで観戦しました。その神学校卒業の時、学長から「聖書と神学についての基本的なことは教えた。実践はこれから自分で苦労して身に付けるように」と言われて、一九六六年に伝道の最前線に送り出されました。伝道の方法や礼拝の仕方などの実践神学は教えてもらっていませんでした。それから早や半世紀近くの歳月が流れました。半世紀経った今も、状況はほとんど変わっていません。今になって思えば、私を教えてくださった神学校の教師たちは、実践の事柄を教える力を持っていなかっただけだったようです。まだ日本の教会は歴史が浅く、いろいろな面で未発達なのです。

 使徒パウロは、若きテモテに「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください」(第二テモテ二・三)と手紙を書き送りました。神学校卒業時に二四歳であった私は「キリストの兵士」として京都府の舞鶴の小さな教会に赴任しました。パウロとともに苦しみをともにする覚悟でした。しかし、その熱意と直面する現実とはかみ合いませんでした。私は伝道をどのように実践すればいいかを知りませんでした。

 伝道を始めた頃、洗礼を授けるときに、私は「ハイデルベク・カテキズム(教理問答)」を用いて「受洗教育」をしました。これは一六世紀にドイツの改革派教会の「堅信礼」の準備教育のテキストとして使われ始めたものです。親も世間もキリスト教一色の世界で育った子供たち、しかも幼児洗礼を受けたヨーロッパの子供たちを対象に作られたものです。何も分からないまま、私はヨーロッパの「伝統的な信仰」を伝えるために、このカテキズムを用いました。

 伝道に行き詰まり、私は「どのように伝道すべきか」を学ぶためにアメリカの神学校に留学しました。伝道の聖書的基礎論、伝道の歴史、カテキズムの研究、ビリー・グラハム伝道協会のテキスト、キャンパス・クルセードのテキストなどを学びました。博士論文の主題は「求道者のためのテキスト」でした。そのテキストをもとに日本に戻り、約三〇年間、いくつかの地方教会で伝道しました。その間に、私はテキストを幾度も改訂しました。最初十課だったものが三十課にもなりました。2014年に、そのテキストが「地引網出版」より出版されることになりました。日本のプロテスタント伝道は一五〇年以上の歴史がありますが、このテキストは出版されたものとしては多分最初の求道者伝道テキストになります。なぜ過去一五〇年間、日本にはこのようなテキストがなかったのでしょうか。もし作られていれば、多くの変遷を経て、私のものなどよりもっともっと素晴らしいテキストがいくつもできていたことでしょう。

日本の教会はどこかが間違っていないでしょうか

 「日本人の皆様、あなたは今まで神社で偶像神の前で手を合わせて祈ってきました。そのような祈りとキリスト教の祈りは異なります。キリスト教の祈りは、あなたの心の中に『祈りの世界』を描くところから始まります。全能にして唯一の神を心の中に持ってください。その偉大な創造神に『ハレルヤ』と賛美の叫びをあげてください。それがキリスト教の祈りです」と、なぜ最初に教えなかったのでしょうか。現在も日曜日に教会の礼拝で祈られている祈りは、場所が神社から教会に代わっただけのような「感謝と祈願」中心の祈りをしています。日本の教会はどこか根本的に間違っている点がいくつもあるのではないでしょうか。

 明治の初め、横浜の外国人居留地の近くに出来たある教会の信徒構成は、七割が旧士族の出身者でした。進取の気概にあふれた旧士族の青年が、西洋のキリスト教を求めたのは日本の歴史の成り行きからやむを得ないことであったと思われます。しかし、信仰を持った初期の日本人指導者は、けっして庶民を最初のターゲットにしていませんでした。日本人牧師たちは高い教育を受けた一部の人々に福音を語り、洋風のキリスト教を伝えました。日本人クリスチャンの指導者たちは、西洋の神学校と同じような神学校を日本にも作り、同じようなカリキュラムで神学生に日本人庶民とは関係のうすい神学を教えて伝道の最前線に送り出しました。日本伝道初期から日本人向けの工夫はありませんでした。日本人伝道者たちは、町の一等地に外国からの献金を仰いで教会堂を作り、庶民から遠いキリスト教文化を根付かせました。日本のすべての教会がそうであったわけではありませんが、教会もミッション・スクールも大きな傾向としては、欧米のキリスト教文化で味付けられた「信仰」を伝えてきました。しかも、封建的で儒教的あるいは日本人特有の考えを加えたキリスト教信仰を伝えてきたのではないでしょうか。つまり、それはけっして純粋に聖書的ではありませんでした。

 日本人は教育に熱心です。日本人は真面目で真剣です。日本人は救いを求め、神信心に篤い民族です。なぜ日本の庶民に向くテキストを作って福音の神髄を分かり易く教えてこなかったのでしょうか。全くなかったわけではありません。救世軍の山室軍平は『平民之福音』を発行し続け、内村鑑三は『聖書之研究』を発行し続けました。しかし、それらは部分的な運動でした。欧米の神学や教義の輸入から始まった日本の多くの教派・教会は、内部の論争で弱くなりました。福音を語る牧師が尊敬されるのではなく、理事長とか教団の代表に選ばれる人々が尊敬され始めました。それは「上に立つ人が偉い」という日本的な考え方が根付いていたからではないでしょうか。ふさわしくない人が教会の長老・執事に選ばれるようになりました。異言を語る人々が出ると、語らない人々から「異端」と言って追い出されました。都会の大きな教会の牧師は異動することなく居座り、地方の小さな教会の牧師は生活苦に悩まされました。心の狭い信者たちは「伝道、伝道」と言いながら、自分に居心地の良い家庭的な教会を作り、新しい人々に門戸を閉ざしてきました。これらはあまりにも過激すぎる批判でしょうか。日本の教会はどこかおかしかったのではないでしょうか。そのようなおかしさの一つが、日本伝道の最初に作られるべき日本人求道者向けテキストが作られなかったということに表れているのではないかと思います。

どこかおかしい現象のいくつか

 どんなにすばらしい牧師でも、十年もいれば、その説教は底が見えてきます。強調点は偏ってきます。信徒は別の牧師によって訓練されるべきではないでしょうか。何十年も同じ教会で牧師をし、引退すれば「名誉牧師」の称号を与えられ、安らかに天国に召されることが、キリスト教の信仰の証になるとでも言うのでしょうか。「奴隷牧師」であるべき人々が「名誉」を尊称として受けることは、「へりくだって生きなさい」と説教してきたことと何の矛盾もないのでしょうか。家庭を顧みないで、日曜日には独り教会に行き、夕方まで帰宅しない信徒である夫や妻が、はたして良いクリスチャンなのでしょうか。そのような夫や妻を持った配偶者や子は、教会を恨み、その夫や妻が死んだならば、葬式だけを出しやり、その後はすべてを忘却したいと思うのではないでしょうか。私はそのような人を知っています。聖書に基づいた説教をしながら聖書の教えとは異なる生き方をしている人は、いつの間にか自分を失ってそれに気づきません。宗教は堕落します。宗教家はもっと堕落します。日本の教会は聖書の教えから離れた教会になってしまいました。明治時代から、どこかが狂っていたのではないでしょうか。教会は求道者、信徒、長老・執事の教育をほとんど何もしてきませんでした。封建的で儒教的なキリスト教信仰を本当の聖書の教えとはき違えてきたのではないでしょうか。このような事情が重なって、明治時代の最初に作られるべき「日本人求道者向け」のテキストが作られなかったと考えられます。

 日本の教会はすべてを見直さなければならないと思います。日本の教会は聖書の教えに反することは、聖書の教えに反すると言うだけの理由で離れ、忌み嫌い、イエスならばどうするかと問い直してやり直す必要があります。求道者教育もその一つです。基本的なことは徹底的に教えるべきです。しかも理論的でなければなりません。日本人は論理を重んじます。日本人は納得すれば強くなります。あやふやなことを教えれば、教師に恥をかかせないために求道者は黙って去ってあげます。日本人求道者を甘く見てはなりません。ほとんどの日本人は真面目で律義で純真です。この世に生まれてきた者として「救い」を求めています。日本人の求道心は激しいものがあります。そのような求道者に聖書の教えの神髄を教えなければなりません。それらはヨーロッパのカテキズムには書いてないことです。

 礼拝の中の「祝祷」を祈りだと勘違いしている牧師が今も多くいます。日本の神学校では祝祷のことをほとんど教えていません。なかにはカトリック教会の教皇や司教のように「祝福」している牧師すらいます。礼拝の基礎すら理解していません。信徒の中には「キリストを通して」父なる神に祈っている人がいます。「キリストを通して」救われるのだから祈りにおいても当然だと思い違いをしている人がいます。キリスト教の祈りの基本すら教えられていないのです。しかもこれらの間違いは信仰に影響を及ぼす重要な事柄です。祈りの後には「アーメン」と唱和すべきです。それが聖書の教えです。讃美歌は祈りを歌っているものだと言うことを知らない信徒が多くいます。最近の讃美歌には「アーメン」の付いていないものがあります。最後は「アーメン」をもって歌い(祈り)終わるべきです。「ヨーロッパの教会では最近『アーメン』を付けないのがはやりです」と言う牧師がいます。理屈にもなっていません。日本の教会はどこに軸足を置いているのでしょうか。人間の知恵ですか、聖書の教えですか。

日本人は聖書を知りたがっている

 日本人は「原典」志向です。写経がはやっているのはその一つの現れです。ですから日本人は「本物志向」と言った方が正確かもしれません。日本人は「聖書」を学びたがっています。私は求道者を得るために、「どうですか、私に遭ったのを機会に、一つ聖書を学んでみませんか」と言って誘います。キリスト教を学んでみませんか、信仰を学んでみませんかとは言いません。本格的に「聖書」を学んでみませんかと言う方が、日本人の心に訴えます。神について、キリストについて、聖霊について、教会について、などの教義学的な取り扱いは得策ではありません。そのような方法は、求道者にとって信仰を押し付けられているようで警戒されます。「聖書を学ぶ」のであれば、良ければ信じるし、気に入らなければいつでも抜けることが出来ます。それに、なにより世界のベスト・セラーである「聖書」そのものを教えてくれるのなら、断る理由が少なくなります。

 私が作った『求道者伝道テキスト』は、求道者と一対一で、聖書をあちらこちら読みながら進行します。全30回を終わるころには、聖書の中の有名な聖句をほとんど読み終わります。読んだ箇所に線を引いてもらいますから、求道者は自分の聖書にいつの間にかたくさんの線が引かれて愛着を感じ、聖書そのものを理解する達成感を得ることが出来ます。これがこのテキストの一つの特徴です。

 ほとんどの日本人は聖書の内容を知りません。政治家も学者もジャーナリストもほとんどキリスト教のことすなわち聖書のことを知らないまま仕事をしています。西洋の宗教音楽の専門家も演奏家も聖書からくる信仰を深く理解することなくその道のプロになっています。私は日本の社会がどこかおかしいからだとばかり思ってきました。ニ〇一二年、私は友人四人と共に、なぜ日本ではキリスト教が受け入れられなかったかを科学的手法で研究しました。驚いたことに、キリスト教が受け入れられなかったのではなく、教会やキリスト教徒が十分に教えてこなかったからだという結論に導かれました。具体的に言えば、日本のキリスト教が本当のキリスト教ではなかったということ、牧師たち指導者が未熟であり、クリスチャン全体が一般の日本人と同じように島国的な劣等感に支配されているというようなことでした。ようするに日本のキリスト教信仰は日本人クリスチャンすら本当に解放していないのです。日本の教会は、今までと同じようなことをしていれば、さらに力を失ってゆくことでしょう。

日本人クリスチャンは、批判されることを嫌います。牧師たちは非常にプライドが高いと思います。それらの欠点はそのまま一般の日本人と同じです。日本人は批判に弱く、批判されるとすぐに閉じこもり、日本人は特別な民族だと言い訳をします。聖書の教えによって変えられなければならないクリスチャンが、なぜ変えられないのでしょうか。それは実は聖書の教えを知っていないからではないでしょうか。すなわち、基本的なこと、根本的なことを知らなかったり気づいていなかったりするからではないでしょうか。このような日本の教会への批判を持ちながら、私は日本人向けのテキストを求め続けてきました。


(9月号)

 私は一五歳のとき近くの教会に自分の意志でふと行きました。宣教師は聖書と絵本と紙芝居を用いて、私に信仰を伝えてくれました。それが出発点になり、やがて私はこの道の伝道者になる決心をしました。聖書の教える神は創造神であること、その神の「ひとり子」が人類の罪のために犠牲の死を遂げてくださったということが私の心を捕らえました。

 私は一八歳で神学校に行きました。六年間学びました。それでも私の信仰はしっかりしていませんでした。私には深く理解できていないことがありました。なぜキリストが十字架の上で死ぬと、私の罪が赦されるのでしょうか。あまりにも基本的なことであり、今さら質問するようなことではありませんでした。一〇年も教会に通い、神学校の教育を受けても、「なぜキリストが死ぬと私の罪が赦されるのか」という素朴な私の疑問には納得した答えを得ることが出来ていませんでした。

あまりにも基本的なこと

 キリストは「わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます」(ヨハネ一〇・一五)と言われました。一体「いのち」とは何でしょうか。「いのち」とは「死」の反意語というだけの意味でしょうか。このようなことを考えるのは私が理屈っぽい性格だからでしょうか。牧師になってから、私はレビ記第一七章をテキストにして説教を作っていたときに、一一節の「いのちは血の中にある」と言う聖句にふれ、突然目が開かれました。人間の命は血の中にあると言うのは聖書の偉大な教えです。私の知る限り、聖書以外に「いのち」がどこにあるかを教えているものはありません。

 この時から、私は求道者にキリストの十字架上の死を語るために、まず「血」の説明から始めるようになりました。求道者はこの世でもっとも高価な物がいのちであることを当然のこととして知っています。「いのち」に優る物はこの地上にはないからです。キリストのいのちは私たちのいのちより高価です。なぜならそれは神のいのちだからです。キリストの一滴の血は、全被造物を総合した値段より高価です。したがってキリストの一滴の血潮は、全人類の罪をあがなって余りあります。

 このような説明をすれば、なぜ旧約聖書では動物の血を流して罪のあがないをしていたのかが分かってきます。今でも多くのクリスチャンが旧約聖書の理解に自信を持てないのは、血を流す動物犠牲について分かっていないからではないでしょうか。日本では血を流すことや動物を殺す職業を隠す傾向にあります。しかし、血を流すことなくして罪の赦しはありえないと断乎とした確信を持てば、日本人クリスチャンはもっと力強く旧約聖書を教えることが出来るようになると思います。「血を流す」という日本人に説明しにくいことを避けていては本当の伝道はできません。いのちは血の中にあり、全被造物の中でもっとも尊いものであることを確信すれば、キリストの十字架上で流された血の効力を熱心に語れるようになります。「キリストの一滴の血潮は万物より高価である」ということを、まず求道者に納得してもらわなければ、福音を伝えることはできません。このようなことは西洋のカテキズムには書いてないことです。私は三〇回の一対一の個人伝道で、一回をまるまる使って「血について」取り上げ、キリストの血によるあがないを求道者が納得するまで教えることにしました。

聖霊について教えなさい

 旧約聖書は「父なる神」について教えています。新約聖書の福音書は「イエス・キリスト」について、使徒書は「聖霊」について教えています。聖書は三つの人格を持った唯一の神について順序良く余すところなく語っています。しかし、現代の教会では「聖霊」に関してあまり多くを教えていません。(私はヨーロッパの教会が力を失っていったのはここに原因があると思います。早く立ち直ることを願っています。)

 私が使っている「讃美歌集」は全部で五六七曲を収録していますが、「聖霊」の項目はわずか十曲しかありません。もちろん残りの曲の中にも「霊」に関するものは部分的に入っていますから、全部でわずか十曲という意味ではありません。しかし、極端に少ないことは明らかです。私は説教の中心主題で「霊」を取り上げたとき、それにふさわしい讃美歌を選ぶことに苦労してきました。この讃美歌集を編集した人々が、聖霊を強調しない人々であったことは明らかです。
同じ讃美歌集にクリスマスの歌は、二六曲も収録されています。明らかにアンバランスです。しかもその二六曲のクリスマスの歌は、一二月二四日と二五日だけに用いることができるものがほとんどで、その前の一か月もある待降節に用いることが出来るのはわずかです。何を言いたいのかと言いますと、その讃美歌集の編集者は西洋の有名なクリスマスの歌を紹介したいのであって、神が人になって来たという驚くべき福音の中身に重点が置かれていないと言うことです。

 話は変わりますが、日本では徳川時代の二六〇年の間、宗教は存在していましたが、真剣に信じてはいけない状態でした。仏教も神道もすべて政府の管理下に置かれていました。「信仰」の力の偉大さを恐れた為政者は、人々が真剣に信じることを恐れました。あいまいな神や仏を、あいまいに信じる程度なら許可されました。現代でも、たとえクリスチャンになったからと言っても、聖書の教えをそのまま信じて、熱心な信者になってはいけないと怖れる心が作用していると思います。信仰の自由が認められるようになっても、封建時代の呪縛から日本の社会と国民はまだ本当には解放されていません。日本人クリスチャンは今も力強く働いておられる聖霊をまともに信じることを怖れています。クリスマスの讃美歌が、全能の神が人の姿をとって生まれてこられたという力強い内容の言葉で満ちていたとしたら、とても日本では受け入れられないのではないかと、クリスチャン自身が自主規制をかけてきたのではないでしょうか。日本の教会は今も何かに怯えています。日本の教会は、聖書の中に百も語られている聖霊の教えの中から、ほんの一つか二つだけを恐る恐る小出しにしているような状態と言っても過言ではないと思います。

 私は聖霊について教えてくれる教師をもっていませんでしたから、自分で学びました。聖書を読み直し、関連する書物を何十冊も読み、録音テープを聞き、聖霊体験をしている人々の教えを乞うて国内はもちろん外国にまで行きました。アメリカでも日本でも、多分おそらく世界中で、聖霊を熱心に信じる人々と宗教改革以来の教義を熱心に信じる人々とは、お互いに対立し、相手を理解しようとしていないと思います。つまり、クリスチャンと言えども、両者は非常に心が狭いのです。なぜ互いに張り合うのでしょうか。私はここに私たちの深い罪性を見ます。私は三十回の「求道者伝道テキスト」の中で、正直に聖書が語るままの聖霊の教えを取り上げるように努力しました。私の理解は不十分でしょうが、聖書に対しては正直に向き合っていることを読者は理解してくださると信じています。

工夫して教えましょう

 日本人は「西洋コンプレックス」を持っています。教義に重点を置く教派の人々は、常に欧米の神学動向に注意を払い、「有名な神学者がこのように言っている」というようなことに関心を払います。カリスマ派の人々は、大きな集会を開くとき、今も欧米あるいはラテン・アメリカの講師を招へいしなければ、多くの聴衆を集めることが出来ないと思っています。IT革命の波は、このような教会の体質をも根こそぎ変えようとしていますが、まだまだ日本人クリスチャンの意識を変えるところにまで至っていません。外国の伝道者ではなく日本人の伝道者を講師として用いれば、水面下で「彼は異端的である」、「あれは少しおかしいから注意しなければならない」と言って陥れようとします。このような現状はクリスチャンに限らず、日本人全体が持っている西洋コンプレックスの一つの表れだと思います。そのコンプレックスはどこから発生しているのでしょうか。私はそれが島国という地政学的な環境から来ていると思います。

 私が若かった頃から、アメリカでは大学の教師の授業を学生が評価するアンケート用紙が配られていました。今では同じことが日本でも当たり前のように行われていますが、日本とアメリカでは大きな違いがあります。アメリカの学生は批判も厳しいが、それほど悪い教師でない限りおおむね最高評価の「エクセレント」(非常に良い)の箇所に適当にチェックを入れて提出します。日本では、結構良い教師にも「最高」ではなく次の「良い」(まあまあ良い)にチェックを入れます。日本人はその人の良い面を高く評価せず、むしろ悪い点を探します。日本人は理論的で正確な評価を行います。他人に対して温かい評価を行いません。一般的に言って、人をほめて伸ばすのではなく、注意して成長させようとします。このような違いは国民性の違いです。それはどこから来るのでしょうか。日本人には大陸的でおおらかなところがありません。島国の民ですから、常に人の目を気にして生きています。私たち日本人クリスチャンは委縮していないでしょうか。実は、私はそのように委縮していた者の一人でした。

 私は求道者に聖書を教えているときに、「父なる神」と「イエス・キリスト」の関係を説明するのに苦労してきました。あるとき、私は「聖書の神は『二人の神』がいるようなものです。しかし、その中身は同じです」と説明したら、求道者はすぐに理解してくれました。しかし、私は「二人の神」という言葉を使うことを長年怖れていました。「鈴木牧師は異端者です」とか「彼には注意したほうがよい」などという悪い噂を流されるのではないかと怖れていたからです。求道者伝道の教育は「わかりやすい」が大切であるはずです。三位一体論を持ち出すのは求道者伝道では適切ではないと思います。なぜならそれは難しい教理だからです。求道者に聖書を教えるとき、内容が正しくかつ分かりやすければ、それでいいではありませんか。しかし、「三位一体論」という、分かったようで分からない言葉が日本の教会で使われてきました。
「二人の神」という言葉を使い始めた頃から、私は子供の頃十二月二八日に、近所の人々と餅つきをして、最後のうすの餅を皆で食べていたことを思い出しました。小さくちぎった餅の一片は、温かいうちなら元に戻してつきなおせば、また一つの元のかたまりになりました。元の大きなかたまりの餅とちぎった一片の小さな餅が父なる神とキリストの関係を説明するのに便利だと思って用い始めました。その後、ある人から「鈴木牧師、今の人は餅つきの経験をしていないから、たとえ方を餅つきから『パン生地作り』にした方がいいですよ」とアドバイスを受けたので、併用するようになりました。これは私の求道者伝道の小さな工夫の一つに過ぎません。私たちはもっと大胆に、怖れることなく、工夫を凝らして求道者に聖書の中身を知っていただくように努力すべきだと思います。

 求道者と向き合って聖書を教えていた私の執務室には、私の大好きな「幕屋の絵」が飾ってありました。それは見る人にとってはちょっと変わったユニークな絵なのですが、荒野を旅していたイスラエル人の様子を説明するためには非常に効果的だと思っていました。幕屋というものは、日本人には想像もできないものです。言葉自体が聞いたことのない言葉です。明治時代の初めから「組み立て式テント神殿」とでも翻訳しておいてくれればよかったかもしれません。しかし、私の執務室に飾ってあった絵を見せれば日本人にもすぐにイメージできました。聖書は学べば学ぶほど実は単純で分かりやすいものであることが分かってきます。
初心者に対しては、聖書の内容を、工夫して、分かりやすくしなければなりません。程度を下げて教えるという意味ではなく、中近東の異文化の下で啓示された福音を、東洋の島国の人々に分かるようにという意味です。日本人求道者に対しては決してレベルを下げてはなりません。分かりやすくして、かつレベルを上げなければなりません。日本伝道では世界一の高いキリスト教教育を目指さなければならないと思います。これが私の求道者伝道の一つの原理です。日本のキリスト教の指導者(牧師や長老など)は、信者ではない一般の日本人を軽く見ているのではないでしょうか。在来の宗教をご利益宗教や偶像信仰というくくりの中に押し込み、それに対抗するためにキリスト教も易しい教義だけを教えて伝道しようとしていないでしょうか。それは日本人求道者を軽く見ていることになります。

本当のところを知りたい日本人

 日本人は「本当のところ」を知りたいのです。ですから、聖書そのものを前面に出して、これがキリスト教の信仰です、と主張すべきだと思います。すなわち、教会の教義を教えようとするのではなく、聖書そのものを教える必要があります。カテキズムは教理を問答式で教えるテキストです。ヨーロッパの宗教的な闘争史の中で、有無を言わせず、これはこうであり、これ以外はあり得ないという教え方でした。日本では最も避けるべきタイプの伝道方法だと思います。私はカテキズムそのものを批判しているのではありません。それ以前に、キリスト教の源になっている「経典」そのものを、日本人は知りたいはずだということになぜ気づかなかったかと言うことを言っているのです。それに気づけば、旧約聖書の「血」や「幕屋」というようなカギになる言葉の説明も上手にしてきたことでしょう。

 「律法」に関しても同じことが言えます。律法に対する誤解が日本の伝道を阻害してきました。宗教改革の「律法によって救われるのではなく、ただ信仰によって恵みによって救われる」という教えが先入主となって、律法を何か悪いもののように位置づけてしまいました。律法なくして旧約聖書はありません。律法は旧約聖書の基盤です。主イエスも「律法を廃止するためではなく完成するために来た」と言っておられます。このことが理解されないならば、クリスチャンの信仰は決して強くなりません。伝道力も弱くなります。しかし、残念ながら日本のプロテスタント教会は律法を誤解したままです。私は「求道者伝道テキスト」の中で、「律法は旧約聖書の基盤」「福音書は新約聖書の基盤」であることを何度も強調するようにしてきました。聖書の信仰をやさしく教える工夫と勇気を持ちましょう。また、努力している他の人への悪い「レッテル貼り」と言う批判をしないで、互いに助け合い励まし合う努力をしていきたいと思います。日本のキリスト教会の伝道は低迷しています。これを打ち破るためには、その低迷の根底を見極める必要があります。私は、それが聖書そのものを教えてこなかった点にあると思っています。教義を教えるのではなく、聖書を教えるべきだと思います。より多くの日本人に聖書の中身をよく知っていただくために働きたいと思います。


(10月号)

宗教の布教とは目立たない方法でするのが、布教する人にとってもされる人にとっても心静かに行える唯一の方法ではないでしょうか。

人格的な方法で求道者を求めましょう

 昔、私は自分の住む町の各家のポストに伝道集会の案内を配った経験があります。新聞の折り込みチラシで宣伝したこともあります。あまり効果はありませんでした。印刷物を作って「読んでください」というのは、私が言う「人格的な方法」ではありません。物(印刷物)を媒介にしているからです。私は駅に電飾掲示板を出したこともありました。非常に高い料金がかかりました。これもあまり効果がありませんでした。これも人格的な手段ではありません。媒介物を使って宣伝しているだけですから。

 私が言う人格的というのは、一人一人に話しかける方法です。

それは顔と顔を合わせて相手に話しかけることです。しかし、道を歩いているときに、突然、見知らぬ人に話しかけることができるでしょうか。「あやしい人」に見られるのが落ちです。一軒一軒の家庭に、二人一組になって訪問伝道をしている人々をよく見かけます。これは私が言う「人格的」な方法の一つです。しかし、いくら正装をして礼儀正しく訪問しても、現在では迷惑がられることが多いのではないでしょうか。

 私は牧師として人に接する機会が多くありました。礼拝に初めて来る人、葬式などで出会う人、カウンセリングを求めて教会に来てくださる人、教会に電話をかけてきてくださる人などです。私は決して社交性のある人間ではありません。しかし、私はできる限り努力して相手の人に「聖書を学んでみませんか」と率直に尋ねました。「はい」と答えてくれる人は10人に1人くらいの割だったでしょうか。私は自分の予定表を見ながらその人の都合のよい日時に合わせて、第一回目の面談日を決めました。そして、第一回目が終わるときに第二回目の約束を作りました。これを四回、五回と続けると、相手の人もこちらを信用してくださり、こちらも相手の人のことがくわしく分かってきました。このような関係を作ることを私は人格的と呼んでいます。人間というものは、少しずつ時間をかけて人間関係を築いてゆくものだと思います。私は「テキスト」を用いながら、これを30回続けることにより、その求道者と非常に良い関係を築くことが出来ました。

お金をかけない

 信徒の方で、20人か30人に1人くらいの割で、私に求道者を紹介してくださる方がいました。教会員全部に「伝道に熱心に取り組んでください。私に求道者を紹介してください」と言っても、ほとんどの人はできませんでした。聖書にも「神はある人を使徒、預言者、伝道者、牧師、奉仕者にし・・・」と書いてありますから、伝道に熱心な信徒の数に限度があるのは当然のことだと思います。 
信徒の方の中には、ご自分で家庭集会を開き伝道してくださる方がおられました。これも人格的な方法だと思います。なぜなら近所の知り合いに直接顔と顔を合わせて誘い、求道者を得ているからです。しかし、すべての信徒の方がこのような伝道の賜物をもっているわけではありません。けっして無理強いをしてはならないと思います。要するに、求道者の求め方は宣伝をして得る方法ではなく、人づてに知り合いをたどってゆくという方法です。私はこれを人格的な方法と呼んでいます。このような方法はお金が全くかかりません。私は「伝道にはお金をかけない」というのが聖書的であると思います。人から人にたどってゆくのがキリスト教の伝道というか、すべての宗教の過去の伝道の歴史ですから、お金がかからないと言うことは当然の帰結ではないかと思います。「宗教」とはそのようなものではないでしょうか。(大々的に宣伝している宗教もありますが、それらは例外ですし、やがて消えていくと思います)

 私は、自分で「一週の祈り」という小冊子を作りました。きれいに印刷したもので、制作費が一部100円しました。時々、出会う人にそれを差し上げて関心を引き、「脈」がありそうだと思ったときに、いつものように「これを機会に聖書を学ぶために私の所に通ってこられませんか」と尋ねました。印刷物を使うわけですが、ばらまくように使うわけではなく、月にほんの数冊使っただけでしたから、これは人格的な方法の補助手段として容認できる範囲ではないかと思っています。

 アメリカで大衆伝道の研究をしていたとき、大群衆を集めて説教し、信仰の決心者を募り、今後は教会へ行くように勧める伝道集会が、アメリカの歴史と社会事情から来ていることを私は知りました。昔、アメリカでは丸一日あるいは二日も馬車に乗って集会に参加し、テントを張って一週間も滞在して集会に参加することは、西部開拓史を学べば、当時の人々にとって大きな喜びであり楽しみでもありました。現在も行われていますが、現代は社会事情が異なっているため単純に昔と比較できません。しかし、大伝道集会は非常にアメリカ的な方法です。これをそのまま日本に持ってきて同じことをやっても、日本人に通用するところは少ないと思います。日本には日本人に向く伝道方法があるはずです。日本では、古い表現ですが、どぶ板を渡って家を訪ね、あまり他人に見られることなく静かに説得する方法が向いていると思います。過去の布教に成功した宗教は、基本的にこの方法でした。できる限りの機会をとらえ、顔と顔を合わせて、求道者を得るように努力しましょう。

 徳川時代になる前まで、日本では、仏僧は簡素な堂に住み、身を清潔にして、貧しい衣装を身に付け、粗末な食べ物を食べ、人々に「道」を説きました。日本では、そして多分他の国でも、宗教とはいかに生きるか死ぬべきかを説き、それを聞き信じる人々が、堂や教会を作って、生涯を「道」に従って生きていこうと努力するものだったと思います。特に日本では「『道』を説き、それを聴き、信じる」という方法で宗教が広まってきました。キリスト教もそのようにして広まってきましたが、キリスト教の場合、教会堂に公然と人を集め、説教を聞かせるという方法が中心で、その前段階としての個人伝道が少なかったと思います。すでに信徒になった人々にとっては、公然と教会に集まるという方法で良いと思いますが、求道者にとっては初めの内は一対一で個人的に教育する方が、その求道者にとって親切だと思います。

人は皆求道の志を持っている

 人間はすべて生きるということや死ぬということ、また死んだ後どうなるのかということを考えます。これはその人にとって重要な問題です。ある人は強く考え、ある人は「どちらみち確たる答えはないのだから」と思って深く追求しません。人によって強弱はありますが、すべての人はなぜ自分が生きているのかを考えます。このことを換言すれば、「人はすべて救いを求めている」と言えます。もし誰かが本当のことを教えてくれるなら、ぜひとも聞かせてほしいものだと思っています。キリスト教の牧師とか伝道者から聖書を学ばないかと誘われて、もしその人が「救い」を求めている人であるならば、私たちの申し出に応えてくれます。応えてくれる人の数は少なくても、結局この方法が一番確実な方法だと思います。30人くらいの日本人に問いかければ、1人は応えてくださるでしょう。キリスト教会はこの努力を怠ってきました。日曜日に、正装して、美しい礼拝堂で、高いところから説教し、伝道しているような気になっていたのではないでしょうか。

 私のよく知っている人は天理教の「先生」でした。その方は大きなかごを背負って全国の教会員の御宅を汽車に乗って月に一度訪問していました。その例祭には新しい人も加わることが出来ました。「先生」はきっとその家庭でお祭りをするだけではなく、人生相談にものっていたことでしょう。これも人格的な伝道方法だと思います。宗教の布教とは、目立たない方法で、変な表現になりますが、地下にもぐるような方法でするのが、布教する人にとってもされる人にとっても心静かに行える唯一と言ってもよい方法ではないでしょうか。

聖書を教えなさい

 日本人はキリスト教に対して尊敬と反感を持っています。尊敬の点はここではとりあげないで、反感の点だけを取り上げたいと思います。葬式の後の食事会や結婚式の披露宴の席で、私の近くの席に着く人の多くは、私にいろいろな質問をしてきました。
  プロテスタントとカトリックの違いは何ですか
  うちは〇〇宗の仏教ですが、キリスト教にも宗派があるそうですね
  酒やたばこはやってもいいのですか
  人間が生きて行くのは大変ですね
  娘がキリスト教の学校に通っていますが、学ぶのはいいが信じて深入りするのはいけないと注意しているのですよ
  「ものみの塔」という宗教団体はキリスト教ですか
だいたいこのような話をしてくる方が多かったと思います。少し敵意と嫌味がありました。

 神・仏具屋、神主とその家族、神社の信徒総代やその家族、新宗教の信者、門前などの商店主やその家族、古い家柄を誇っている人々やその家族、これらの人々はキリスト教に反対している人々が多いと思います。仏僧やその家族の人々は友好的な人が多かったように思います。日本では表立ってキリスト教に反対する人はほとんどいませんが、社会の裏側では、キリスト教を嫌っている人が多くいます。この現実をキリスト教徒は冷静に知っていなければならないと思います。彼らの質問に対しては、むきになって議論をする必要はないと思います。議論によって私たちの伝道意欲が減退させられてしまいます。あまり深刻に取り合わなくてもいいのです。怖いのはクリスチャンが、質問に答えれば伝道になると誤解してしまって彼らの罠にはまることです。伝道とは福音を順序正しく伝達することです。質問や疑問に応えようとして、クリスチャンが脇道にある「轍(わだち)」にはまり込んでしまう恐れがあります。キリスト教の伝道とは、次のことです。

  あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
  そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
  また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを
  守るように、彼らを教えなさい。(マタイ二八・一九―二〇)

 私たちの務めは聖書の教えを人々に伝えることです。しかし、多くのクリスチャンが伝える前の段階の諸問題を説明して時間ばかりを取られています。このことの背後に潜む本質を深く考えれば、これは悪魔の策略です。このように断定すると、多くのクリスチャンに反発されます。自分がやっていることが、悪魔の策略にはまっていることだと言われるわけですから。しかし、多くのクリスチャンが、聖書を教えないで、日本人が抱く質問に答えて伝道しようとしています。たとえば次のようなことです。
  人生の意味とは何でしょうか
  今の生活に満足していますか
  家の宗教とどのような関係をもてばいいのでしょうか
  「罪」とはどのようなことを意味しているのでしょうか
  恋愛とは、教育とは、子育てとは、などなどの設問をして、それに答えて伝道をしようとします。

伝道とは人々の質問・疑問に応えてカウンセリングすることではありません。カウンセリングはカウンセリングです。それは貴いクリスチャンとしての愛の実践です。しかし、伝道ではありません。伝道は神の教えを伝えることです。聖書の教える内容は単純にして明快なものです。人生論や社会生活論から入ってゆく必要はありません。そのような方法は人にこびている方法です。まっすぐ聖書一本で進むのが聖書の伝道論です。愛の実践は見返りを求めないことです。愛すればキリスト教を理解してくれると考えたり、信じていただけるかもしれないと思うのは、もはや愛ではありません。それは見返りを求めている行為です。他の宗教の熱心な信者に対しても、見返りをまったく求めないで、その人の欲することをしてあげるのがキリストの教える愛のはずです。伝道は伝道、愛の実践は愛の実践です。教会とクリスチャンは、その両方ともを同じ比重で行わなければなりません。しかし、両者は区別されなければなりません。私たちは福音を語り伝えるべき権能を付与されています。そして、その人に洗礼を授けなければ伝道は完結しません。愛する読者の皆様、私たちは福音を語り伝えようではありませんか。

 福音とは何か。それはイエス・キリストがなしてくださった十字架と復活と聖霊の注ぎではありませんか。しかし、それを理解するためには、旧約聖書の教えを抜きにしてはできません。私たちの伝道は旧・新約聖書を正しく効率よく順序正しく伝えることです。しかも、日本人の求道者に向く方法でなくてはなりません。私はそれを目指して「求道者伝道テキスト」を作ってきました。

 ただ誤解の無いように一言加えれば、人生とは、生きるとは、苦しみとは、罪とは、家庭とはというような現実の問題をまったく取り上げないということではありません。30回も個人伝道を続けていれば、かならず求道者の悩みや問題が話題に上がります。また、律法やイエスのたとえ話などを学ぶときに、日々の生活に関連することが出てきます。キリストなら、今持っている問題にどのように答えてくださるでしょうか。求道者は聖書の学びを通して、その人の問題に関わる原理・応用・実践を身に付けていけます。原理の理解度と応用力の深さは各求道者によって異なりますが、そこは個人伝道のよいところで、その人に合わせて話し合うことが出来ます。時には予定をしていた学びを進めることが出来ないで、カウンセリングのようなことで一時間が終わってしまうことがあります。それはそれでやむを得ないことだと思います。次回の学びでは、また軌道を元に戻して聖書の学びを続行します。個人伝道とは、一方的に聖書を教えることではありません。求道者が話し始めたら、「傾聴」することが大切です。求道者個人伝道の経験を積んでいけば、私たちの「聴く力」も恵まれて成長させていただけます。(終わり)

求道者伝道や「求道者伝道テキスト」への御意見がありましたらお聞かせください。(終わり)
鈴木崇巨 Eメール takahiro.chinohate@gmail.com
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その他の書籍

書籍

鈴木崇巨は『求道者伝道テキスト』の他に次のような本を著作しています。すべて個人伝道あるいは伝道に関するものです。

1 『キリストの教え』 
春秋社、2007年、1800円
     〒101-0021 東京都千代田区外神田2-18-6
     電話 03-3255-9611
     振替 00180-6-24861
     http://www.shunjusha.co.jp/

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     この本は『求道者伝道テキスト』に沿った内容で、このテキストを用いる人や
学ぶ人にとっては参考になります。直接春秋社にお申し込みください。

2 『韓国はなぜキリスト教国になったか』
     春秋社 2012年、2200円
     住所・電話など同上

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     この本は題名通りの内容で、日本の侵略に対して抵抗したキリスト教徒への評
価、歴史、民俗性、そして伝道者たちの必死の伝道によって、わずか数十年の
内に韓国が儒教の国といわれていたのにキリスト教徒が多数を占めるようにな
っていった様子をインタビューやアンケートや多くの資料を元にわかりやすく
説明しています。韓国語と英語にも翻訳されています。この書は当会にも少し
在庫がありますから当会にお申込みいただいても結構です。Eメール:takahiro.chinohate@gmail.com


3 『牧師の仕事』
     教文館  2002年、3000円
     〒104-0061 東京都中央区銀座4-5-1
     電話 03-3561-5549
     FAX 03-5250-5107
     http://www.kyobunkwan.co.jp

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著者は日本の一般的な家庭で育ち、キリスト教の牧師になったために、日本の
キリスト教会のことや牧師の務めに関して知識を持っていませんでした。その
ため自分で牧師の仕事とは何かを悩み考えながら18年の歳月を費やして書き下
ろされたものです。礼拝・結婚式・葬式などはもちろんのこと着任から牧会、
教会の運営、謝儀や家庭生活、転任、引退にいたるまですべての項目を膨大な
資料を元に書かれています。直接教文館にお申し込みください。この本は韓国
語に翻訳されています。

4 『礼拝の祈り ― 手引きと例文』
     教文館  2014年 1400円
     住所・電話など同上

     日曜日の礼拝の中で司式者が祈る祈りの53個の例文と15個の献金の祈りそし
て招詞にふさわしい聖句の一覧表が載っています。直接教文館にお申し込みく
ださい。この本は当会にも少し在庫があります。

5 『一週の祈り』
     個人伝道研究会「地の果てまで」発行、一部100円  
     直接当会までお申し込みください。
     〒141-0001 東京都品川区北品川6-7-11-203  鈴木崇巨
     電話 03-5422-6253 
     Eメール・ takahiro.chinohate@gmail.com

     ポケット・サイズの美しい装丁の小冊子です。日曜日から土曜日までの七日の
祈りの文章が詩のように作られています。ほとんどの文章・句が聖書からの引
用句かそれをアレンジしたものです。求道者がキリスト教の祈りに慣れるため
に参考になる個人伝道の補助教材として用いることが出来ます。また、病人や
友人への小さなプレゼントになります。

6 研究発表『日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか』 
     研究会Fグループ(著者)・岸義紘、根田祥一、鈴木崇巨、濱野道雄、廣瀬薫
一部200円
     直接当会までお申し込みください。
     個人伝道研究会「地の果てまで」発行、一部100円  
     直接当会までお申し込みください。
     〒141-0001 東京都品川区北品川6-7-11-203 鈴木崇巨方「地の果て会」
     電話 03-5422-6253 
     Eメール・ takahiro.chinohate@gmail.com


     この研究報告書はKJ法という研究方法を用いて、なぜ日本ではプロテスタント
の伝道が150年も経っているのに成功しなかったかの研究報告書です。とかく
このようないわゆる「失敗研究」は、その人の主観的な批判・主張に終わりま
す。それに対し、この研究報告は、この種の分野では一つの方法論を採用した
日本で最初の科学的な研究です。
     2012年に「研究会Fグループ」の発行で、「いのちのことば社」を通して一冊
の本(400円)として発売されました。そこには「共同研究報告」以外に著者で
ある五人の研究者の「補足説明文」が入っていました。この本は既に絶版にな
っています。
そのなかから五人の研究者の了承を得て「共同研究報告」の部分を抜き刷りに
したものが当会より配布されているものです。

     直接当会より発行している文書は、発送の時に「郵便振替用紙」を同封します
ので、それをご利用ください。

『求道者伝道テキスト』の申し込み

『求道者伝道テキスト』の申し込み

「地引網出版」にお申し込みください
191-0065 東京都日野市旭が丘2-2-1
電話・042-514-8590
FAX・042-514-8591
メール・ap@revival.co.jp
書籍販売・http://www.jibikiami-book.jp

『求道者伝道テキスト』各課の解説

『求道者伝道テキスト』各課の解説

 「求道者伝道テキスト」の各課の解説を始めれば、限度がありません。それは聖書のことやキリスト教のことをすべて語るに等しくなります。したがって、ここでは信仰生活の長い信徒や伝道者を対象にテキストに沿った要点のみを簡潔に記します。

 『キリストの教え』(信仰を求める人のための聖書入門)、春秋社、2007年、1800円、
(03-3255-9611 http://www.shunjusha.co.jp/  ISBN978-4-393-22205-8) は、「求道者伝道テキスト」に沿って書かれている本ですから、参考になると思います。

 また、このホーム・ページの最後に「求道者伝道テキスト」を作る苦労話や日本の教会の伝道に関しての鈴木崇巨(たかひろ)の理解についての文章を載せてあります。お時間のある時に後半の「伝道雑感」に立ち寄ってください。

 「求道者伝道テキスト」の第1課から第10課までは、日本人が聖書を学ぶための予備編です。求道者が聖書を学び始めるときに予備知識として知っておくべきことが取り上げられています。第11課以降は聖書の教えに基づいた信仰の説明です。では、第1課から順に要点だけを記します。

第1課 「聖書の神の名前」
 名前は他と区別するために必要です。「主」と翻訳されている日本語は、聖書の神の名前です。ヘブライ語の「ヤーウェ」です。その神が、目を閉じた時に、目の前に現れてくるようにイメージします。その神に話しかけるのがキリスト教の祈りです。このことさえ分かれば、本日から祈ってはいけない理由があるでしょうか。日本人は初めて行った神社でも平気で祈ります。同じような気持で「主」に祈ることにクリスチャンとして抵抗を感じますが、なにしろ初めて学ぶ求道者ですから、最初から「今後は、『主』が斜め前上方にいてくださると思って、その名を呼んで祈ってください」と教え、それを実践していただくように導きます。まだ祈りたくないと言う人には、もちろん強要しません。鈴木の経験では拒否する人は一人もいませんでした。拒否されなかった理由は、面談(授業)の終わりに、ごく自然に「では、お祈りして終わりますから、目を閉じてください」と言って、鈴木が静かに祈り始めてしまうからかもしれません。

第2課 「イエス・キリスト」
 日本人が一番疑問に思い、分かったようで分からないことが「神」と「キリスト」の関係です。餅をたとえに説明します。あるいは「パン生地」をたとえに説明してください。三位一体という言葉は使いません。これは難し過ぎる言葉です。父なる神とイエス・キリストの関係はけっして難しいことではありません。やさしく説明して、求道者に納得していただきます。

第3課 聖霊
 人間は体と心と霊によって出来ています。人間には「霊」があることを求道者に教えます。一方的に押し付けるように教えることを意味しているわけではありませんが、こればかりは説明して説明できることではありませんので、「第16課で詳しく勉強しますが、人間には霊というものがあります。その人間の霊で神の霊を受けることが出来ます」と教え、目の前に現れて来る聖書の神「主」より放射されている聖霊を受けることを教えます。

 また、ほとんどすべての日本人求道者は、キリスト教信仰を持つと日本の社会の中で生活することが難しくなることを知っていますから、そのやり過ごし方を、この求道者伝道の初期に取り上げて納得していただきます。求道者に納得していただくことが大切です。要点は「通過儀礼」には出席すること、しかし、偶像を拝まないことです。

第4課 祈りの世界へようこそ
 求道者は教会に長く通っているうちに自然にキリスト教の祈り方を覚えてくださるという勝手な思い込みは捨てましょう。日本人求道者には、理論的にはっきりと祈り方を教えましょう。日本人は教えられたことに忠実ですから、祈り方を教えることは非常に大切です。鍵になる言葉は「祈りの世界をイメージする」ということです。「目の前に、父なる神がいてくださり、その右にキリストがいてくださると思ってください。右とは『代理』を意味します。ですから、父なる神があぐらをかいておられるならそこにイエス・キリストが座っているようにイメージしてくださってもいいです。その父なる神とイエス・キリストから聖霊が出ているとイメージしてください。これがキリスト教の祈りの世界です」と説明します。このような「祈りの世界」を持って神の前に出れば、人は皆驚きます。なぜならば、その神は「天地の創造者で、性質は愛と謙遜、姿は栄光、威光、権威に満ち・・・」などを持った全能者だからです。それらは今後学ぶことですが、ともかく、全能の、天地の創造者であられる神の前に出ていることをイメージすれば、人は皆「ハレルヤ」と叫ばざるを得ません。このすばらしい祈りの世界を、わずか4週間で体験できるのは、なんという恵みでしょうか。この確信を伝道者が持たなくて伝道できるでしょうか。世界一すばらしい宗教である「福音」を、いわばセールスしているのですから、勇気を持って、神さまに押されて、伝道しましょう。

第5課 旧約聖書の大切な部分
 旧約聖書の基盤は「律法」です。律法のすばらしさを伝道者自身が信じていなくて、どうして求道者に旧約聖書を教えることが出来るでしょうか。「律法」は今も万国の法律の元になっており、人類の生活の規範になっています。神が世界を創造されたから今求道者も存在します。それも「律法」の教えです。律法に関することは「求道者伝道テキスト」の中で、説明はできても納得してもらうことが一番難しい点です。(この点についてさらに深く理解したい指導者はユダヤ教を少し学ぶことが良いかもしれません)

第6課 新約聖書の大切な部分
 「福音書」を抜きにして、新約聖書もキリスト教もあり得ませんし、新約聖書の中の手紙類も黙示録も生まれてこなかったことでしょう。そういう意味で福音書は新約聖書の基盤です。それは旧約聖書における「律法」と同じように大切なものです。
 「当時のユダヤ人社会の背景」は難しく思われる教師がおられるかもしれませんが、それほど難しいことを要求していません。常日頃の礼拝説教で牧師が説明していることです。

第7課 新約聖書の中の使徒書
 新約聖書の福音書以外を使徒書というくくりの中に入れて説明します。これで求道者は新約聖書の全体を俯瞰的に理解できます。求道者が自分一人でも新約聖書を読めそうだと思ってくださればうれしいことです。使徒書を理解するためには「当時のローマ帝国の社会背景」を知る必要があります。これも常日頃、礼拝説教で説明されている程度の内容です。参考書もいくつか出ていますから、必要に応じて学ぶとよいかもしれません。しかし、あまりに難しい内容にまで立ち入ると求道者に理解されなくなります。

第8課 悔い改めて謙遜になりなさい
 キリスト教信仰の非常に良い点は、倫理的に、道徳的に、また人格的に高い理想を追い求めている点ではないでしょうか。特に、「愛」の教えは聖書の一番すばらしい教えではないでしょうか。しかし、それは求道者にとってはまだ難しい教えだと思います。それに比べ、謙遜の教えはイエスのへりくだりを説明すれば分かりますから、求道者には分かり易いと思います。愛については第15課と第24課で学びます。

第9課 血の教え
 なぜキリストが私たちの犠牲になって死んでくださると、私たちの罪があがなわれるのでしょうか。このことを論理的に教えないことは、求道者伝道において決定的な欠損になります。求道者がこれを理解できれば、本当に偉大な一歩を前進させます。信仰は聖霊の導きによることは言うまでもないことですが、それを理論的に支えることは非常に重要だと思います。知識と信仰は別ものですが、信仰は正しい知識に支えられる必要があると思います。「血」が世界で最も高価なものであるというのは、聖書が断定する偉大な知識です。しかし、世の中にはお金が最高に価値あるものと思っている人もいますから、まず十分に説明して求道者に納得していただきましょう。
 今のような高い教育が無かった旧約聖書の時代に、罪の贖いを動物の「血」によって行っていた旧約聖書のやり方を、指導者(教師の側)が唯一の方法であると確信することなしに、キリスト教伝道を行う資格はないとすら思います。これは厳し過ぎる言葉でしょうか。律法は血の上に成り立っています。十字架の福音も血の上に成り立っています。血を隠したり不浄なものとしてきた日本人求道者に真剣に教育しましょう。

第10課 イエスの御名
 もし求道者がイエスの御名によって祈れば、御父とイエス・キリストは喜んで祈りを聞いてくださると信じることができれば、その求道者の信仰は正しく清い信仰であると思います。クリスチャンはイエスの御名によって祈る特権を与えられていることを十分に信じていなければならないと思います。熱心そうな声を出したり、長時間祈ったりすることが求められていることではなく、イエスを神の御子と信じてその御名を用いて祈れば必ず聞かれるという純粋な信仰こそが祈りの基礎であることを教えましょう。

 さて、以上のように第1課から第10課までは、聖書を理解するための予備知識でした。どうか以上のことを日本人求道者には「難しいこと」と思わせないでください。これらのことはやさしい基本的なことですから、言葉を尽くして説明しましょう。日本人の中にはキリスト教を難しい宗教と思い込んでいる人がいます。他方、人は皆救いを熱心に求めています。人の救いにかかわる大切なことですから、熱い思いを持って求道者に語りかけるようにいたしましょう。私たちの知識の多さではなく、福音を語る熱意が求められていることです。

第11課 幸せな生活のための律法
 律法は(1)生活に関する教えと(2)礼拝・儀式に関する教えに大別されます。613の律法はすべて神から来たすばらしい教えです。そのことを指導者(教師)の側が信じていないならば、求道者は律法学者のように律法を受け取ってしまうかもしれません。すなわち、堅苦しい道徳的な教えと受け取ってしまうかもしれません。私たちの人生と生活を幸せなものとしてくれる「柔和な神」からくる教えが律法です。この第11課では(1)の生活に関する教えを扱います。テキストに書いてない教えで、教師が良いと思う聖句があれば、それらも使ってください。(2)の礼拝・儀式に関する律法は第18課で学びます。

第12課 キリストの奇跡
 すでに第6課で学んだように、福音書はキリストの(1)奇跡、(2)説教、(3)十字架と復活がおもに書かれています。そのように大きく福音書をとらえて、そのうちの「奇跡」について学びます。聖書に書いてあることはそのままであると筆者は信じています。そのことを押し付けるのではなく、教師がそのように理解していることを知らせるだけで、求道者にとっては意味のあることだと思います。イエスはまったき神の子であられたので不思議なことを行うことが出来ました。

第13課 イエスのやさしいたとえ話
 難しいたとえ話を加えても、四つの福音書にかかれているたとえ話は合計して約50個にすぎません。数を言うことによって、イエスの話が無限で、難しいものであるという思い込みから解放されます。求道者は意外に神からの教えの数が少ないことに気づいてくれます。そうすれば、もっと多くの教えを欲しいと思い、「そうだ、旧約聖書の『律法』も直接神から来たもう一つの教えである」ということに気づいてくれると思います。神から人類に教えられていることは、律法も福音書もやさしく単純な教えであることを求道者が気づいてくださるとよいと思います。
この課は前半の「聖書の豆知識」のような内容に、あまり時間を取られないように注意するとよいと思います。すなわち、この課の後半のたとえ話により多くの時間をかけた方が良いと思います。

第14課 イエスの弟子たち
 求道者にとって聖書に出てくるカタカナの名前は、なじみがなく難しく感じられます。この課ではペテロ(ペトロ)の名前だけでも知っていただければよしとします。

第15課 神を愛せよ、人を愛せよ
 神が世界を創造されたから、私たち人間が存在します。ですから、聖書は常に神第一主義です。神を愛する人は、人を愛する人へと生まれ変わります。

第16課 人間を構成しているもの
 創世記第2章7節で「神が人の鼻に命の息を吹き込まれた」と書いてあります。ここには霊を吹き込まれたとは書いてありません。「息」を吹き込まれたと書いてあります。「息」と「霊」は別の言葉です。しかし、この「息」という言葉は「霊」を意味しています。人間は「霊」を吹き込まれたので生きる者となりました。したがって、「霊」を取り上げられたら臨終を迎えます。(取り上げられた霊は神の国に行き、新しい体を神の国で与えられ永遠に生きます)
 霊という言葉は旧約聖書では「ルアッハ」、新約聖書では「プニューマ」だけです。他方、人間の心を表現する言葉はいろいろあります。いろいろある理由はそれだけ人間の心は多様で、それを表す言葉も多様になるからです。心、魂、気持、精神、知識、知恵、理性などの言葉です。これらの言葉と聖書の「霊」とは異なります。霊は霊であって、それに代わる言葉はありません。求道者に「あなたの中には霊があることを信じてください」とはっきり教えましょう。
特に、日本では魂という言葉と霊という言葉が同じような意味で用いられ、霊魂などという言葉がありますので、求道者に魂はいわゆる心の一種にすぎないことを教え、霊を独立した別ものであることを徹底しましょう。人間は自分の霊で聖霊を本当に受けることが出来ます。(そこから聖霊の賜物や聖霊の実が出てきます)
 「神はわたしたちに、ご自分の霊を分け与えてくださいました」(Ⅰヨハネ4:13、共同訳)。私たち人間の霊は神の霊から出ています。したがって、私たちの霊は神の霊すなわち聖霊を受けることができます。私たちの血は全身を行き巡っていますから、全身が生きています。生きているということは全身に霊が働いています。したがって、聖霊を受けることができるのは、私たちの体のどこからでも受けることが出来ます。何を言いたいかといいますと、聖霊は私たちの鼻とか爪とか髪の毛の穴から入って来るなどと限定してはいけないと言うことです。いわば全身のどこからでも聖霊は自由に私たちの中に入ることが出来ます。
 祈るとき目を閉じて、目の前に神(父とキリスト)を思い、自分の霊の中に聖霊を受け入れるイメージをしっかり持つと、その求道者は霊的な祈りのできる信者へと成長します。これはとても大切な点です。あなたが実践しておられる祈りが、そのまま求道者に真似されますから、あなた自身の祈り方が求道者伝道では非常に重要です。どうか確信をもって言葉を尽くして説明するようにしましょう。

第17課 固定観念を捨てましょう
 この課は、クリスチャンの人格的な成長の秘訣を取り扱います。聖書を学び聖霊を受け続けることによってクリスチャンは成長します。学校教育や社会勉強や人生訓練を否定するものではありませんが、聖書と聖霊による教育に優るものはありません。生涯にわたり礼拝に出席し、日々聖書を読み、祈る人になるように求道者を励まします。そうすることによって、求道者は自分の内にある固定観念を照らし出され、それらから解放されます。聖書をたくさん学ぶことは、私たちを悪魔の力から解放し、人生を幸せなものにしてくれます。

第18課 儀式的な律法
 「モーセ五書」の中には幕屋のことがたくさん書かれています。幕屋はイエス・キリストを暗示しています。犠牲の動物の「血」は、イエス・キリストの十字架上で流される「血」を指し示しています。ささげられた動物は、やがて地上に誕生してこられるイエス・キリストを指し示しています。聖書は人間の罪をどのようにあがなうかということが書いてある書であると言うことが出来ます。「血」は命であって、宇宙でもっとも高価なものですから、あがないのために用いられます。この課はとても難しいことを扱っているように見えますけれど、実は非常に単純な教えです。難しく考えないで、「やさしい内容です」と言って要点だけを話しましょう。私たち人間は聖書のすべてを理解できませんから、細かな点については分からない部分がたくさんあります。分からないことは分からないと言う勇気を持ちましょう。

第19課 キリストの十字架と復活
 イエス・キリストの十字架と復活の出来事は聖書に書かれている通りです。それは事実でした。
 イエス・キリストの十字架と復活は切り離せるものではなく、ワンセットです。
 イエス・キリストの十字架と復活の意味は、新約聖書の中に五つ出てきます。その中でも十字架による贖罪と復活による永遠の生命の証明の二つは特に大切です。しかし、他の三つもきちっと教えましょう。

第20課 使徒パウロ
 新約聖書に登場してくる人物で、求道者が覚えるべき名はペトロ(ペテロ)とパウロです。すでにペトロ(ペテロ)は学びましたから、ここではパウロについて学びます。ヨハネやヤコブやアンデレなどは、このテキストでは学びません。

第21課 旧約聖書の歴史
 旧約聖書に出て来る歴史は、求道者に教える場合は、大きくとらえて教えることが重要です。けっして細かいことを説明しないことです。もちろん質問されたら答えなければなりませんが。
要点は、アダムの罪がついに国家滅亡に至らしめたと言うことです。
人物名で言えば、アダム、アブラハム、モーセ、ダビデの四人を教えます。
神はアダムの罪を遺伝された人類(代表イスラエル人)を哀れに思い「律法」を与えてくださいましたが、人類(代表イスラエル人)は神に立ち帰ることが出来ませんでした。神はなおも人類を憐れみイエス・キリストを十字架におかけくださいました。このような旧約聖書から新約聖書への連結は、かならず教えなければなりません。
(本書ではユダ王国の滅亡年を紀元前587年説にしています)

第22課 聖書の中間時代
 この課はけっして細かいことを教えようとしているのではありません。ここは世界史の問題であり、その分野の専門家でなければ説明できないことだと思います。
 律法学者、パリサイ人、祭司、サドカイ派、離散していたユダヤ人などは、それらを個別に説明するより、聖書の中間時代を知ることによってまとめて理解する方がはるかに得策です。この分野について学んだことのない教師(指導者)は、大雑把な要点だけでも自習してくださるとよいと思います。けっして専門家ほどの知識を要求しているのではありません。ただ、この課をぬきにして新約聖書のさらなる学びはできないと思います。

第23課 イエスの難しいたとえ話
 正直に言って「難しいたとえ話」というこの課の表題が、ふさわしい題なのかどうか、筆者自身は疑問に思っています。しかし、神がどのような御方であられるかを、私たちがあれこれ考えること自体は何と言う恵まれたことでしょうか。もしイエスの語られたたとえ話を、わたしたちがあれこれ考えるならば、そのことを神は喜んでくださるに違いないと思います。ちょっと想像してみてください、地上で多くの人々がイエスの残していかれたたとえ話を考えている様子を。きっとイエスは「たとえ話を残してきてよかった」と思っておられるのではないでしょうか。それだけ人々が神と神の国について考えているのですから。それは素晴らしいことだと思います。

第24課 聖霊の実
 「聖霊の実」について理解するためには、その前に
   第3課 聖霊が主から私たちに注がれているという聖書の教え
   第9課 私たちはキリストの「血」によって清められているため、聖霊を受けるこ
とが出来る身になっていること
   第10課 「イエスの御名」によって祈れば聞かれるという強い信仰
   第16課 人間は「霊・心・体」によってなり、私たち人間の霊に神の聖霊が直接注
がれていること、などの理解が必要です。
このような今までの学びの上で、求道者は真剣に「聖霊の実」を求め始めます。すべての求道者が自分の心の貧しさや欠点を嘆いているはずですから、神から与えられるすばらしい聖霊の実を求め始めます。この課を学ぶことによって、求道者は体験的に信仰の世界に入り、階段を一つ上に登ることが出来ます。もし教師自身が信仰を持ってから何か変えられたこと、すなわち聖霊の実を与えられている経験をしているなら、そのような証を求道者に話すとよいと思います。

第25課 聖霊の賜物
 聖書によれば、クリスチャンは聖霊の賜物を与えられます。ですから、教師は求道者にそのことを正しく教えなければなりません。
 聖霊の賜物の理解は教会を分裂の危機に追いやり、クリスチャンを引き裂く結果にもなりました。これはキリスト教会の歴史の悲しい事実です。それはアダムの罪が現代の私たちの中にも厳然として存在していることを教えています。どうか聖霊の賜物に関する聖書の教えが自己主張や自己保身や傲慢の元にならないようにお願いします。
 「賜物」とは神からの一方的な恵みであるということです。ある人には与えられ、ある人には与えられないこともあると言うことです。そのことを理解したうえで、すべての信者が熱心に求め続けるべきです。
 他の人に与えられている賜物を嫉んだり、自分に与えられている賜物を誇ったりすることは愚かなことです。聖霊の実は、聖霊の賜物に優るものです(Ⅰコリント13:1-2)。求道者が洗礼を受け、聖霊の賜物を与えられたら、それは導いた教師の喜びです。そのような気持を持って、この課を教えましょう。
 現代の日本の教会において、もっとも残念なことは、「聖霊の実」や「聖霊の賜物」を求めないどころか避けている教会があることです。その原因は教師や信徒の「保身」だと思います。なんという悲しいことでしょうか。冷静な気持で、確信を持って、求道者伝道をつづけましょう。

第26課 旧約聖書の文学
 古代の一つの民族が、天地を創造された神から直接「いかに生きるべきかの教え」(律法)を与えられ、その教えによって訓練された青少年が、やがて成長して信仰的な知恵の言葉を語り、中には天来の声を聞き、幻や特徴ある夢を見ることは大いにありうることです。旧約聖書の文学や預言は、そのような熱心な唯一神への信仰から生まれてきました。この大前提の上に立って、求道者が旧約聖書の文学を好きな人になってくださるように導きましょう。

第27課 旧約聖書の預言
 現代は非常に非宗教的な社会だと思います。多くの青少年が神や宗教について無関心です。しかし、旧約聖書のイスラエルでは、幼少のことから律法によって教育と訓練を受けてきた信仰篤い人々もいました。それらの人々の中から、神に選ばれた特別な人々が現れてきました。ある青年は頭脳が明晰で、ある青年は感性が豊かでした。そのような人々の中で、神からの声を聞き、夢や幻を見る人々がいました。彼らは自分に迫って来る神の力により、もはや黙っていることが出来ませんでした。彼らは預言をし始めました。旧約聖書の預言の背景には「律法」による教育があったことを見逃してはならないと思います。預言を遠い過去のことではなく現代でも起こりうることであることを教えましょう。

第28課 キリストの再臨
 天地の始まりがあれば、また終りもあるはずです。旧約聖書は終末を前提としています。イエス・キリストは終末とご自分の再臨を確かに約束しておられます。使徒書にも終末と再臨を当然のこととして期待しています。聖書にしるされている通りにキリストの再臨を教えましょう。

第29課 教会と礼拝
 イエスが12使徒を制定した背景には、将来現われて来る教会(エクレシア)を想定していたことはまぎれもない事実です。新約聖書の学者によれば、このような将来の教会の出現を想定している聖句は、新約聖書の中に少なく見積もっても80を下らないと言われます。教会は神が制定されたものであることを教えます。そして、主の復活を記念してクリスチャンは土曜日から日曜日に礼拝日を変え続けてきました。礼拝は神がお命じになったことです。したがってクリスチャンは礼拝を厳守します。
 礼拝論の詳しいことについては、このテキストではふれません。各教会で行われている礼拝を尊重しましょう。

第30課 私はこれでも信仰をもっているのでしょうか
 信仰は目に見えないことですから、異言を語ったり夢や幻を見ない限り、絶対的に自分の信仰を確かめることはできません。しかし、30回も共に聖書を学んで来れば、教師は求道者の中に信仰の火種のある事を確かに感じます。ですから、求道者が「神様、私はまだよくわかりません」と言うのではなく「私はよくわからないところがありますが、私はこれからあなたを信じます」と言うように励まします。
 伝道者の使命はマタイ28:19にあるように「洗礼を授ける」ことですから、求道者に洗礼を勧めなければなりません。
 筆者はこのテキストを用いながら120名以上の求道者に伝道して洗礼を授けました。ほとんどの求道者は、私が勧める前に本人から受洗を申し出てくれました。もちろん、受洗に至らなかった求道者もいました。すべては主のお計らいのことです。洗礼を強引に進めることはできませんが、励まし勧めることはしなければならないと思います。

 筆者は洗礼を申し出た求道者に、洗礼前の準備や信徒になるにあたっての心構えなどを行ってきましたが、ここでは省略します。それらはどこの教会でも行われているような内容でした。 (終わり)